ここでは、教科書の中のささいな記述から当時の社会状況、言語状況についていろいろと考えて調べていくことにする。 5月25日の『助手さんのひとりごと』でとりあげた「おはようございました」「おはようございます」の話なんかは、ここで書くようなことかな。 『研究の解説』よりもずっと取り留めのない話になると思う。よろしくお付き合いください。
今まで生きていて何が一番ショックだったかといえば、今から10年程前のこと。
大学に行っていた僕は、夏休みに実家へ帰り、夕飯の準備の手伝いをしていたときのことだ。
母が僕に言った言葉が全く理解できなかったのだ。
自分を育ててくれた人の口にした言葉が理解できないという事態に、正直なところ、焦った。明らかに日本語の語彙なのだが、わからない。
それは「よぼう」という言葉だった。ま、方言だといってしまえばそれまでだが、それまでだがしかし、18歳で大学に進学するまで一緒に暮らしていた人の言葉が理解できないということのショックは大きかった。その単語は、もちろん僕の使用語彙ではないし、理解語彙でもなかったわけだ。
人数を数えるとき、「ひとり」、「ふたり」、と数え、次は「さんにん」、「よにん」、「ごにん」となる。これは、僕の理解語彙であり、使用語彙である。
が、幼い頃から、僕の周りの大人たちは「ひとり」、「ふたり」、に続けて、「みたり」、「よったり」を使っていた。5からは「ごにん」となる。人数を数えるときの「みたり」「よったり」は僕の理解語彙である。使用語彙かと問われればちょっと考え込むが、違和感を感じない。
という話は、言葉の変化、移り変わりと言う話のマクラだ。言葉の時代による変化は、日本語史という研究分野でいろいろと取り上げられている。この日本語史の研究は方言の研究と密接に関係していて、とてもおもしろい。機会があったら、是非、関連する本を読んでほしい。きっと日本語のおもしろさに引き込まれていくだろう。時間とともに言葉が変化するというのは、例えば、「全然」という言葉が現在では「〜ない」という呼応関係が崩れ始めており、「全然おいしい」が自然に発せられることに対する年長者の違和感から見て取れる現象である。ところが、明治時代・・・夏目漱石の小説なんかでは、「全然」は「おいしい」と呼応しており、「全然〜ない」のほうが違和感のある使用法だったらしいことがわかっている。今、「全然〜肯定」の言葉遣いを見て「言葉が乱れている」という人たちは、自分の両親、祖父母、曾祖父母の世代の日本語と異なった言葉を自分たちが話していることに気づかないだけなのだろう。
以前、別のところで書いたが、豚の鳴き声も変わってきている。
夏目漱石の小説『夢十夜』に出てくる豚は「ぐう」と鳴く。学生時代、ここを読んで夏目漱石の擬音語感は変わってるなあと感じたことがあったが、よくよく調べてみると、そうでもないらしいことがわかった。
朝鮮総督府編纂国語読本、私の分類での朝鮮第三期、巻四第一課の「いなかのあき」はこんなことになっている。
| 昭和6年発行 | 昭和12年発行 |
| ぶたごやの中では、おやぶたと子ぶたがぐうぐうはなを鳴らしながら、あそんでいます。 | へいのそばのぶたごやでは、おやぶたと子ぶたが、「ぶう、ぶう」はなを鳴らしています。 |
これをみてわかるのは、朝鮮で豚が「ぶう」と鳴き始めたのは、正確に言えば、「ぶう」と鳴くと公に認められたのは(笑)、昭和12年の段階であったということだ。夏目漱石の擬音語感が変わっているわけではなく、彼が『夢十夜』を書いたときには「ぐう」としか書けなかったんだということ。言い換えれば、平凡な擬音語感であったということの現れである。
さて、ここで重要になってくるのは、小説を読むときには、その小説のかかれた時期の言語使用状況をある程度抑えておく必要があるということ。『今』の『自分』を基準にして読めば『作者の独特の言語観』と思えるフレーズもその時代には至極当然の言語使用でしかないということがある。
僕が言葉に興味を持って調べ物をするとき、この時代による言語の使用状況の変化が一番厄介で、当時使用されていた国語辞典や英和・和英などの辞典類がほしくなるのも、当時の言語の一般的な使用状況が知りたいから。
さてさて、僕が母の言葉を理解できないことがあるという事実は、僕に、言語の世代差を痛烈に認識させたわけだけれども、妻とも時々語感が違うことがあっておもしろい。子供ともそのうち、そのままの意味で『何を言ってるのかわからない』ということが出てくるのかも。『方言辞典』だけでなく、『世代間言語辞典』なんかがあってもいいだろうなあ。
イヌの名前。朝鮮総督府編纂の国語読本や、併合前の日語読本、また、「内地」で使われていた国語読本にはイヌの名前が結構出てくる。ところがこのイヌの名前、時期によって変化していくのだ。今の感覚だと、イヌの一般的な名前(とはいっても、それが一番多いというわけではない)は「ポチ」、猫は「タマ」といったところか。
韓国で暮らしていたときに学生に聞いた話では、韓国で一般的なのはイヌは「ジョン」で猫は「ナビ」だそうだ。「ジョン」というのはちょっと怪しいけど。
イヌの名前を時期別に並べてみよう。![]()
| 時期 | 名前 |
| 1905年ごろ 「日語読本」 学部本及び大倉本 |
ポチ |
| 1907年〜1910年 「日語読本」 学徒本及び訂正本 |
カメ |
| 1913年 「国語読本」朝鮮第一期 |
ポチ |
| 1918年 「国語読本」朝鮮第一期改訂版 |
カメ |
| 1923年 「国語読本」朝鮮第二期 |
べる 又は ぺす |
| 1930年 「国語読本」朝鮮第三期 |
白 |
| 1942年 「ヨミカタ」「初等国語」朝鮮第五期 |
シロ |
だからどうしたというわけではないが、非母語として教えられた言語ではいわゆる「語幹」が働かないから、子供たちには他の名前を許容しないかのような印象を与えたんじゃないかなあ。1923年、大正時期の教科書は全体的にセンスのかなり違った教科書になっている。大正時代に青年期を過ごしたお年よりのセンスが昭和期のそれよりもハイカラでモダンな印象を受けるのと同じ感じ。
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